記録

生暖かい目で見てやってください

愛情って何だろう

 

なかなか壮絶な思い出だったので振り返ってみる。

 

器用貧乏だった私は中学の頃までは勉強も運動も普通にやれば学校の上位にいられるくらいだった。そしてそのまま割と頭が良い高校に入った。みんな可愛くてキラキラしていて勉強もできて、特記するほどの何かが無い私は器用貧乏がただの貧乏になった。人生で初めて挫折した。

 

自信を失って、なんだか学校も部活も辛くて、ネットや趣味に逃げた。両親はそれを許さなかった。

 

入学してすぐに髪を染めた。すると家から引っ張り出され部屋着のまま無理やり美容院に連れてかれ、白髪染めのように真っ黒にしてくださいと言われ、なけなしのお金で染めた茶髪は無理やり黒髪に戻された。

 

1年の秋頃には部活をやめたいと言った。両親は部活を辞めさせてくれなかった。部活を辞めて遊びたいだけだろう!と怒られた。正直、遊びたいのもあったかもしれない。そんなにサッカー上手くないし、部活だからと文化祭や体育祭の制限がかかることにもうんざりしていた。それに、部活仲間とも上手くいっていなかった。説得して辞めるまでに4ヶ月ぐらいかかった。

 

さらにこの頃から落ちこぼれゆえの勉強アレルギーになっていた。勉強しようと思っても何故かできなかった。多分本気の病気だった。親との関係が悪化しつつあることもそれに拍車をかけていた。赤点を取りまくり、母が呼び出され、母に先生の前で私のことをボロクソに言われ、泣いた。

 

門限は9時で、それを1分でも破ると鬼のように怒りの電話とLINE通知が鳴り、帰宅すると玄関で立ちっぱなしのまま2時間説教をされ、その後も聞こえるようにロクでもない娘だとか最低だとか悪口を言われ続けた。そのおかげでクラス会や体育祭や文化祭の打ち上げにもろくに参加できなかった。

 

ついに精神的要因で家に帰れなくなった。家にいる事が辛くストレスになっていた。なにも悪いことをしていなくても、いつ悪口を言われるか怒鳴られるかとビクビクしている毎日が本当に辛かった。ネットや音楽だけが私の居場所だと本気でそう思っていたし、そうでもしていないと家にいるだけで死にそうだった。心が休まる場所なんてなかった。

 

辛い時は音楽を聴いて、ライブハウスの非日常感で気持ちを紛らわせていた。そうやってどっぷり音楽に浸かりこんで、そこで仲良くなった大学生の家を渡り歩き、プチ家出をした。両親の連絡先を消して、3日ぐらい帰らなかった。門限を過ぎると30件とか入ってくる電話も無視し続けた。すると突然携帯が止まり使えなくなった。電話も出れないなら携帯なんて要らないだろう。というLINEが入っていた。

 

プチ家出から学校に行くために帰宅すると、何時間かわからないくらい説教をされた気がする。辛い記憶すぎて覚えてない。その日か定かではないけど、門限をそんなに守りたくないならもう二度とと帰ってくるなと家の鍵を取り上げられた。

 

ちなみに2.3回家の鍵は取り上げられた。

そんな友達と付き合うな、と200回は言われた。

 

成績が悪いのにバイトなんかしてる場合じゃないとバイトもさせてもらえなかった。だが、お前は金をやると悪さをするからお小遣いは無し、と言われて収入源が無くなった。仕方なく親に隠れて口座を作り、親に隠れてマックと試食販売の派遣のバイトを始めた。マック制服は自分で洗濯して自分の部屋のカーテンの裏に干した。なのに何故か私がマックで働いている事がバレた。バイト中に親が来て、すごい血相で睨んできた。あーーーー終わった。この人たちは私の平和をどこまでも壊しにくるんだな。そう思った。多分その日も2時間ぐらい説教された。

 

ライブハウス漬け生活の、最後の方につるんでた渋谷の地下のライブハウス住人たちは、割とロクでもない奴らで、大麻とか風俗とか穴兄弟とか金とか、高校生ながらになんかめんどくさくてしょーもねえなと思って縁を切った。根は真面目だったのでそこらへんの分別はついた。高校生にお金せがんでくるような6個上の彼氏(と呼んでいいのかも微妙な人)にサヨナラ!と電話で言ってから、よーし受験勉強するぞ!と切り替えた。大学には行くつもりだった。だから、近所を歩くなと怒られた緑色の髪を自ら黒染めし、ピアスもつけなくなった。私服で登校するのを辞め、バイトも辞めた。

 

学校と予備校だけの生活になってから両親の態度は一変した。あり得ないほど優しくなり、毎日お弁当を作ってくれたし予備校で食べるコンビニのご飯代までくれた。

 

一般的なレールに乗ってる私が好きなんだな、と思った。レールから少しでもハミ出しそうになると親という権力と圧力を全力で行使して、レールに戻そうとしてたんだな、と気づいた。

 

大学に進学して門限こそなくなったものの、今度は酒が楽しくてしょうがなくて、記憶と共に終電がなくて、起きたら先輩んちとか、カラオケの床とかが日常茶飯事だった。高校生のうちに思いっきり遊べなかった反動がきていた。お小遣いなんてもう高1の頃から貰っていないから何も怖くなかったが、こんどは両親は学費を払わないと脅してきた。お金で統制し続けられたから逆に、金さえあればなんとかなると思っていた。お金に異常な執着心を持ち、あらゆる手段で金を稼いだ。揉めるのが面倒だったので、いくら稼いだか、どうやって稼いだかは誰にも言わなかった。

 

やっぱり親は怒っていた。説教こそ少なくなれど、家にいると常に嫌味を言われていた。この頃になると精神的な辛さより面倒さが勝っていた。両親が仕事に出かけたのを見計らって家に帰り、両親が仕事から帰ってくる前には家を出た。

 

あっという間に3年が経ち、就職活動を始めた。文句や脅しはあれど、結局大学の学費は出してもらっていたので、最低限の礼儀としてどんなに遊ぼうとも4年で卒業することと、諸々のバイトは学生期間のうちに全て辞め、一般企業に就職することは決めていた。大手企業にこだわりがあった私は、就職活動には本腰を入れていた。その頃も両親は異常な程に優しかった。大学での受講と就職活動しかしていなかったため、4ヶ月のニート生活で30万の貯金は全部使い果たしたが、交通費や昼食代など足りない分は恐らくトータル10万ぐらいは親が出してくれた。やっぱりレールに乗ってると優しいな、恩恵に預かります(笑)と思っていた。

 

単位も取り終わり、大手企業に就職が決まった。両親はとても喜んでくれた。それを境に私がどこで何をしようと小言を何も言わなくなった。やっぱり(笑)と思ったけど、ここでもありがたいわ(笑)という気持ちだった。なんだか全てが「(笑)」だった。

 

クソみたいな娘をここまで育ててくれてありがとう。大学まで出させてくれてありがとう。感謝の気持ちはとてもある。目標にはならないが尊敬はしている。

 

確かにレールに乗った人生で手に入れた一般的な幸せが1番幸せかもしれない。そういう思考になってる時点で私はもうこの両親の子供だった。

 

せめて人には多様性を認められる私でありたい。人を否定しない生き方をしたい。でも自分がもし子供を産んだら?

 

幸せになってほしい

 

その気持ちが子供を苦しめてしまうことがあるのかもしれない。愛情って何だろう?